働き甲斐 生き甲斐

自己実現のために働く、という意識の高い話をよく見聞きする。仕事を通じて、なりたい自分を目指す。尊い心がけだと思う。働き甲斐のある仕事は、きっとその人の生き甲斐になっているのだろう。

ただ一方で、自分中心の考え方だな、と感じてしまう。冷ややかな印象を持ってしまう。それは、私に自分のことを考える余裕がないからだろう。

自閉症児を育てるにあたり、仕事に求めるものは大きく変わった。仕事の内容、やり甲斐よりも、急な休日出勤と出張がないことの方が優先される。働く意味は金を稼ぐこと以外何もない。仕事を通じて実現したいものなど一つもない。あるとしても、それは子どもの生活環境を維持する為に必要な金を貯めること。生きるための手段として働いている。

私の生き甲斐は、自閉症の我が子をちゃんと育てることだ。働き甲斐はそのために必要な金を稼ぐこと。仕事にやり甲斐を求められるほど“生優しい“人生を羨ましく思う。生きていて苦しいことが少なそうで羨ましい。絶望や恨み、生きる希望を失う経験が少なそうだ。イージーモードでプレイしているように感じられる。これは、経済的に困窮している人も同じように感じるのではないか。仕事にやり甲斐を求めている場合じゃない。生きることで精一杯だ。生存に注力した状況下においては、働き甲斐という概念は消える。コロナ禍によって、仕事にやり甲斐を求められる状況にない人が増えたのではないかと思う。生活を守るために働く。自己実現というキラキラした理由で働けるほど生優しい状況ではない。

仕事に熱中できる人は、それが叶わない人の分まで頑張ってもらいたい。経済を回すために精力とスキルを使ってもらいたい。それができない人もいるのだから。

私には働き甲斐はないが、生き甲斐はある。我が子を支える役目がある限り、私の生き甲斐はなくならない。最近、自閉症の長男が、非常に物分かりの良い対応をしてくれることが増えた。また、自分を律した行動が取れるようになりつつある。我が子の成長に幸福感を感じ、生き甲斐を感じる。この生活を守りたいという思いが働き甲斐になっている。

自閉症の我が子は、私に働き甲斐と生き甲斐を与えてくれる。私に自己実現の意欲はないが、長男は自己実現に向けて歩き出している。それが私の自己実現の一つになっている。これで十分。ウチだって、十分キラキラしている。このキラキラの輝きの方が、私は好きだ。好きなんだ。