太古の自閉症に思いを馳せる
自閉症は現代にのみ生じている疾患ではない そもそも疾患なのだろうか? 彼らは何か役割を帯びて生きているのではないか?
自閉症の当事者家族として、日々思っていることがある。ダーウィンの進化論によれば、環境に適用できる種のみが生き残り、適用できない種は淘汰される。一つの疑問が生じる。「環境への適応が困難な自閉症がなぜ一定割合で出現しているのだろう?」
自閉症スペクトラム障害なり発達障害(※やや軽度で知的障害が伴わないという意味合いで発達障害と呼称します)の割合は、日本で40人に1人(もっと多いような感覚がある)、アメリカでは約10%、と言われている。先進国では大きな社会問題になっており、巨額の資金を投じて研究が進められている。アメリカや欧米においては、療育や福祉制度の整備が進められ、克服すべき課題に設定されている一方、発展途上国、特に工業化やIT化がそれほど進んでいないアフリカやアジアの国では、大きく取り上げられることはない。
自閉症は、近年になって急に登場した障害ではない。歴史上の偉人には、自閉症を罹患していたと思われる人が相当数いる。ダヴィンチ、ニュートン、モーツァルト、エジソン、アインシュタイン、日本では織田信長、坂本龍馬、南方熊楠などが自閉症ではないかと言われている。現代でもスティーブジョブズやスピルバーグは該当するらしい、と言われている。
進化論によれば、適応できない種は淘汰される。自閉症は、近代に限って現れた障害ではなく、昔から人類に一定割合で出現するものだと推察される。だとすれば、「環境に適応できない種である自閉症は、出現率が下がる、もしくは出現しない(=淘汰される)結果になっていないのはなぜだろう?」
人類の多様性の為、一定の割合で自閉症児が生まれるのではないか
私の自説はこうだ。学者ではないので、専門的な検証は一切なし、8割ロマンが含まれる与太話の一つとして捉えてほしい。
「人類の子孫繁栄の為に一定数必要だから、自閉症はなくならない」というものだ。
疫病で全滅しない為に、血液型が4種類あると聞いたことがある。人間の多様性が子孫繁栄に寄与する為に、自閉症というタイプが存在し続けるのではないか。オールマイティに複数のことをこなせるタイプがいる一方で、集中力に優れた、又は行動力に長けた自閉症タイプがいることが人間という種の発展には必要だ、だから存在している、という説だ。太古の昔、人類の祖先が健常タイプしかいなかったとしたら、洞穴から出ようとする祖先はいなかったかもしれない。採取して食べるだけだった種の一部を植えて、農業を試みようとする祖先はいなかったのかもしれない。ダヴィンチがいなければ、科学技術の進歩は大きく後れていただろうし、エジソンがいなければ電球を手にするのはもう少しあとだったかもしれない。マジョリティーから外れた「変わり者」が一定数いることが、人間という種の強みだったのではないか、そう思っている。
ちょっと変わった人がいても問題なかった。変わったのは、ヒトではなく社会だと思っている
自閉症が社会問題になったのは、ここ数十年の話だ。農業漁業が中心の時代であれば、自閉症にカテゴライズされた人々が困ることはそれ程多くないだろう。産業革命以後、生産効率を追求する社会になった。すると、「変わり者」であるマイノリティーの自閉症は困った存在になる。少数派の自閉症が、大多数の健常者の社会で暮らす困難さが、障害という名称をもって切り出されただけではないのか。発展途上国において、先進国程問題になっていない理由には、このような社会側の要因があるのではないか。高度に効率化した社会においては、自閉症や自閉症の特徴を有する者は、その社会システムに対応できない不適合種として”淘汰ボックス”に入れられるが、生物として能力が足りていないわけではないので、自閉症の出現率が減ることはない。自閉症というカテゴリーを生み出したのは、人間社会であり、後天的な概念だ。
大きすぎる、形が整わない野菜は、どんなに美味しくても出荷されない。人間にも当てはまるように思う
気持ちよさそうに眠る長男の寝顔を見ながら、こんな与太話をよく考えている。もし、今日この瞬間から人間が一切の文明を失い、狩猟一本の生活をせざるを得なくなったら、私は視覚能力に長けた長男に敵わないような気がする。自閉症の長所が、社会にとっての武器になるような世界になることを望む。
長男の長所を、生き抜く武器に磨き上げる。これが我々親の役割であり、私が生きる意味でもある。命を張る価値のあるタスクだと思っている
一緒に頑張ろう。私の生きる意味は君の中にある。成長する姿を見ることが、私の幸せだから。