親ガチャ 子ガチャ 前編

ここ数日、”親ガチャ”という言葉をよく耳にする。
私にとっては耳馴染みのない言葉だが、親ガチャとは

子どもの立場から「親は自分では選べない」「どういう境遇に生まれるかは全くの運任せ」

という意味のようだ。
「良くない親の子どもとして産まれてしまうとゲームオーバー」という、自嘲的な言い回しだと理解している。
人生を玩具のように表現するのはけしからん、不謹慎だ、という批難があるようだが、私としては
「言い回しを度外視すれば、言わんとしていることは正しい」と思っている。
子どもは親を選べない。だから根本から間違っているということはない。

子どもの努力によって”親のようにならない”ことは可能だ。ただ、これには相当な決意と努力が必要だ。
問題なのは、ガチャという言葉よりも、

親ガチャを憂う世の中であること、そしてその状態を放置していること

だと私は思っている。
親ガチャを自嘲的に言っている人の根源は、親ガチャな状態の社会に対する怒りと嘆き・諦めだろう。
自分の人生を玩具のように捉える表現で唾棄するほど、不公平で階層化された社会を呪う人がいることを社会は認識するべきだと思う。
そのきっかけになるのであれば、「親ガチャ」がフィーチャーされてよかったのではないかと思う。

さて、ウチのことを考えるにあたり、この「親ガチャ」に関して思うことがある。それは、

「子どもたちから、”親ガチャで当たりを引いた”と思われたい」

ということだ。自閉症の長男だけでなく、小さい頃から苦労を強いられる次男にもそう思ってほしい。
おそらく妻は当たりだと思う。私も当たりくじだと認識されるよう努力したい。

そしてもう一つ思うことがある。

「子ガチャ」

これは私が勝手に思いついた言葉だ。
親ガチャがあるのなら子ガチャという言葉も在り得るだろう。
そして、子ガチャに関しては言えることがある。

「子ガチャ」は全て当たりくじだ