選挙

私は、国政選挙の参政権は必ず行使すると決めている。今回の衆院選も投票した。

今回、積極的に信任する政党がない中で、少しでも“マシ“な選択肢を探す虚しい選挙だった。選挙結果も現状維持この上ないものだった。直前にコロナや五輪があったにも関わらず、だ。ウチでは、投票を面倒に思う妻のお尻を叩き、夫婦で投票した。最低限の大人の責務を果たしたが、高揚感はなく義務感のみ。4割以上の有権者が棄権した気持ちは理解できる。妻の言っていた「投票したところで何も変わらないでしょ?」は多くの有権者に共通した感想だろう。次の参院選は、より多くの人が棄権を選ぶのではないか。

さて、私には使命感を持って必ず選挙に行く理由がある。それは身内に障がい者がいることだ。福祉政策に力を入れてほしいから、という理由ではない。

優生思想の復活により、障がい者を排除する社会が“再び“現れないために、社会への参画を止めないという思いだ。ナチス下のドイツでは、障がい者が強制収容所へ送られた。悪名高きナチスは、武力ではなく選挙によって信任された。同じことが日本で起こらないとは言い切れない。

日本においても、らい予防法は近年まで改められることはなかった。非人道的な断種手術に、誰も関心を持たなかった。おそらく自分に直接関係しないからだろう。人間は、自分たちと自分たちと違うものを区別し、自分たちより劣る存在に酷い仕打ちをする。人権意識が醸成された現代においても、消えた訳じゃない。

直近で不安を感じたのは、出生前診断のニュースだ。ダウン症のリスクが確認された時、産まないと判断する親が多いのだという。この診断の精度が上がれば、障がい児を産んだ親に対して“自己責任“の名において福祉政策の見直しを迫る圧力がかかるのではないかと不安視している。

往々にして歴史は繰り返す。ナチスのような考え方を志向する日本人が増えないとは思えない。ジャンクなツールであることを差し引いても、Yahooコメントは自閉症や発達障がい、知的障がいに対してなかなか差別的な意見が散見される。

社会を信用していないから、社会に関わり続けるために必ず投票する。これが私の参政権に対する責任感だ。障がい児の当該家族こそ、参政権を放棄するべきじゃないと私は思う。社会は最も簡単に弱者に対して牙を向く。経済の振るわない今の日本はその傾向が強い。少なくとも白紙委任状=棄権だけはするべきじゃない。私はそう思っている。