東京2020 2年分の夏が終わった
1年遅れの東京2020が終わった。
10年近く揉めたにもかかわらず、あっという間に本番が終わってしまった。開催の是非について国民的な議論が展開された五輪だった。
ただ、パラリンピックに関しては、開催出来てよかったのではないかと感じた。
パラスポーツの競技が、エンターテイメントとして十分面白いことを示した。車イスバスケやラグビーなどは、スポーツとして観て面白い。実際にやってみたいと思った。不謹慎かもしれないが、競技用の車椅子に乗って体感してみたいと思った。
パラアスリートは可哀想な境遇の人ではなく、逆境を乗り越えた尊敬すべき人だと教えてもらった。今後可能であるならば、例えばブラインドサッカーやゴールボール、競技用車イスに乗るパラ競技などを健常者が体験する機会が出来て欲しい。そうすれば、アスリートの凄さと障がいの困り事を理解できる。感性豊かな若い世代がパラ競技を体感することが出来たら、きっと障がいの垣根が低くなる。そう思った。
東京2020は商業化した五輪の醜い一面を見せつけられた大会だった。オリンピアン達は素晴らしかった。日本人アスリートは歴史的な快挙をいくつもつくった。ただ、五輪というフォーマットの”カネ”の力を、嫌と言うほど見せられてしまった。東京2020以前と以後で、オリンピックの見方が変わってしまった。
そんな中、パラリンピックはその五輪の印象を少しだけ良い方向に変えてくれた。
その要因は、カネの匂いがしないからではないかと思う。パラリンピックが巨額が動くコンテンツではないことが、むしろスポーツが本来持っている素晴らしさを棄損せずに残しているように感じられた。崇高な五輪憲章の理念を、パラリンピックに見せてもらったような気がした。
パラの閉会式は派手さこそないものの、しっかりしたメッセージと一貫性があった。”外野の介入”がないことで、クリエイターに自由な表現が許されたのだろう。スポーツとカネの適度な距離感を、パラスポーツは示してくれたのかもしれない。
日本に多くの問題を持たされた東京2020。赤字やコロナ禍など、これから多くの問題に向き合わなければならないが、パラリンピックが少しだけ憂鬱を和らげてくれた。
日本人の記憶に残る、暑い夏が終わった。