テセウスの船
全ての部品を交換した船は、元の船と同じ船であると見なすことができるだろうか?
これは、有名なパラドックスの一つである、テセウスの船。同一性とは何かを問うものだ。
私はこの手のパラドックスや思考実験が好きで、自分や身の回りに置き換えて考えるのが好きだ。
実際に船の部品を全て交換することは困難だが、体の中ではこれが起こっている。
人体は新陳代謝によって、数ヶ月で新たな細胞に変わるという。
これをウチにあてはめて、このようなことを考えることがある。
『もし長男が自閉症じゃなかったら、その子は長男と同じ子なのか』
自閉症の困難を嫌というほど味わっている。
家族の大変さだけでなく、長男本人も辛いことの多い人生なのではないかと思う。
長男が自閉症ではなくなったら・・・
そう思わない日はない。
例えば、
ある日、朝起きたら、長男が年相応の“フツー“の子になっていた
もしこんな“奇跡“が起こったら、日常には喜ばしいことが溢れているだろう。
こだわりの生活ルールはなくなり、親は事前の準備をする必要がなくなるだろう。
次男は長男のことを気にかけて声をかけたりサポートする必要がなくなるだろう。
長男は、スマホを欲しがったり、部活に一生懸命になったり、好きな子の話で盛り上がったり、スケベなサイトを見たりするのだろう。
妻と私は、自分の好きなことに費やす時間がふえるだろう。
夢に見た平穏な日々だ。
でも、その長男は以前の長男と同じ子なのだろうか?
私たちの知る長男なのだろうか?
その子は、今まで愛情を注いだ長男とは別人なのではないか?
長男を構成するアイデンティティの一つが自閉症なのではないかとも思う。
自閉症児であるが故に、長男をかわいいと思うことは結構ある。
長男は12歳にして私よりも大きい。
にもかかわらず、歯の仕上げ磨きをしてあげたり、歩き疲れたら『後ろから押して』と言ったり、甘口カレーしか食べられなかったり、ドラえもんやしんちゃんが大好きだったり、将来の目標が「イルカのトレーナー」だったり。
大きな“ちびっ子“を育てている感覚なのだ。
中学生なのに、親にべったり甘えてくる。
これはこれで楽しいし嬉しい。
ウチは、圧倒的多数の苦労の中に、楽しいことが混ざっている。
ちゃんと幸せを感じている。
長男が自閉症であることは、ウチの家庭を形成するファクターの一つだ。
今と違う長男を考えることはできない。
もし「自閉症を治す手術」があったとして、我が子に受けさせるだろうか。
大いに悩むだろう。
今の我が子を愛してあげよう
自閉症の子を育てることに意義を感じ、意味を見つけよう
中学校生活を頑張る長男を見ていて、そう感じた。
思考実験の結果導き出された答えは、今のままで良いというものだった。