パラリンピック

パラリンピックが今週開幕した。ブエノスアイレスで東京開催が決まった時、パラリンピックが東京で催されることがとても楽しみだった。
障がい者が暮らしやすい社会に近づくきっかけになってほしいと思ったからだ。
五輪のゴタゴタとコロナ禍によって、その意義は小さくなってしまったことはとても残念だ。
多くの日本人にとって、オリンピックはその理念ほど崇高なものでないことが東京五輪で露呈してしまった。パラリンピックも例外ではないのだが、いわゆる健常者との垣根を超える存在としての意義は変わらない。

さて、そのパラリンピックなのだが、身内に障がい者がいるにもかかわらず、やや縁遠い。家族で利用する施設で障がい者水泳や卓球、車いすバスケが開催されているので、関わりは一般家庭よりも多いとは思う。支援級に車いすのクラスメイトもいる。
ただ、自閉症とパラリンピックのつながりは薄いからなのかもしれない。長男には軽い知的障がいがあるのだが、パラリンピックの知的障がい者が出場可能な競技はそれほど多くない。レギュレーションとしては、長男よりもっと重い障がいの方が対象のものが多いと感じる。長男の障がいの程度で出場可能な競技はパラにはないだろう。
過去の障がい者大会において、健常者や障がいの軽い選手を不正出場させた事例があったと聞いたことがある。また、運動機能のクラス分けが非常に細かいことを考えると(陸上車いす・伊藤選手のニュース)、運営が難しくなることは容易に想像されるので、仕方ないように思える。

「縁がないので見ない」というものではないが、身内の延長線上、最高峰にパラリンピックがないということは捉え方が変わる。
これは24時間テレビと同じ捉え方なのかもしれない。

もっとも、長男にはこれといった運動習慣はない。プールは好きだが、競泳ではない。本気で走れば相当早いと思うのだが、運動会ではのんびりゆっくり走ってしまう。そもそも闘争心がなく、人と競うことを好まない。

とはいっても、ディスアビリティを克服する姿には感銘を受けるので、折角の機会を無駄にしないようパラリンビックを見ようと思っている。