アルジャーノンに花束を

当事者家族になった今、見ることができなくなってしまった





20年ほど前に、深夜ラジオで絶賛されていたことがきっかけで読んだ不朽の名作、
「アルジャーノンに花束を」  作 ダニエル・キイス

SFのストーリー展開の面白さ以外に、人間のむき出しのエゴが
綺麗事なしに描かれているところに面白味を感じ、
好きな著作のラインナップに加えていた。
初めて読んだ時、知能が急激に発達した障がい者のチャーリーが、
以前の自分に健常者が向けていた目線が憐みをこめたものだったと
感じ取りショックを受ける場面や高知能を手に入れたチャーリーが
普通の健常者が馬鹿に見えて相手にしなくなる様子にショックを受けた。

脳の手術を受けて高い知能を手に入れる主人公・チャーリーと、自閉症の長男が重なる。
小説の設定を読むと、知能の水準やパーソナリティーにやや近しいものを感じる。
そう思ってしまうと、大好きだったこの小説に手を伸ばすことができなくなった。
チャーリーを長男に置換えてしまうと、SF小説でありながら設定が身近になりすぎて、創作物として楽しめなくなってしまった。

『大人である主人公のチャーリーが、未来の長男のように感じてしまう』

『長男は、同じ状況になった時、手術を受けたい、というのだろうか』

『手術が成功して、他を凌駕する高い知能を得た時、周りの人に対して長男は何を思うのだろう』

『高い知能が失われると判った時、どのようなことを思い、行動するのだろう』

『チャーリーは幸せだったのか、不幸だったのか。 長男が主人公だった場合、どう感じるのか』

『以前よりも知能を失ってしまった、チャーリーのその後の人生は・・・』

このようなことを考えてしまうと、以前のように創作物として楽しむことができない。
Wikipediaなどであらすじを読んだだけで、涙が浮かんでしまう。
数年前、TBSが山下智久主演でドラマ化した。第一話で見るのをやめてしまった。
障害者の主人公と、その主人公を見る周囲の扱い、ドラマの設定として追加された主人公の生い立ちなど、
これらが当事者家族として見ていて辛かったので断念した。
「聖者の行進」や「ピュア」、「僕の歩く道」など、特異な能力を持たない障害者を中心としたドラマは多いが、
設定が近すぎると当事者家族には辛いものなのだろうか。

今年、我が家はハムスターを飼い始めた。
「ハムちゃん」と名付けたゴールデンハムスター。
ゴールデンハムスターの「ハムちゃん」とハツカネズミの「アルジャーノン」、
ハムちゃんをかわいがる長男を見て、「アルジャーノンに花束を」が真っ先に浮かんだ。

長男はコロナ禍で急速に成長し、出来なかったことを解消し出来ることを増やしている。

近いうちに、「アルジャーノンに花束を」に挑戦してみようと思う。