“生きる意味“なんて、多分ない

自分は何のために生きているのか

自分は何を成すために生まれてきたのか

人間なら誰でも一度は考えることだ。この問いに答えはない。『自分はちっぽけな存在だ。こんなことをするために生きているのか?』と思い悩む。古今東西、皆この答えを探す為に、もがき苦しむ。神経質だったり、感受性が高い人はより悩んで、出ない答えを出そうともがき苦しむ。

私は、人間に生きる意味はあるか、と問われたら、

『そんなものはない』

と思うことにしている。

生物にとって、生きる意味は

子孫を残すこと。

人間は他の生物にはない高い知能を持っているが、これ以上のものを背負ってはいない。無論、人間のみが神の啓示のようなものは受けていたりもしない。

むしろ、個々の人間が、何かしら生きる意味や価値を背負って生きていると考えること自体、

自惚れが過ぎる考え方なのではないか。

仮に、仕事が生き甲斐の一つだと仮定して、生きる意味を『仕事を通じて社会に貢献すること』や『仕事を通じて貧しい人を一人でも減らすこと』と考えていたとする。仕事に粉骨砕身取り組み、これを成し遂げたとしても、これは仕事の成果でしかない。仕事が上手くいった、ということでしかなく、それ以上のものを成し遂げてはいない。

成すべき使命が仮にあるとしたら、それは、自分にしかできない“何か“に取り組むという生き方をすることだ。1/1で自分だけに課せられた使命。

しかし、大半のことは他の人でも実現することができる。『大統領になって、世界を平和にする』と思ったとしても、代わりに取り組める人はいる。自分でなければならないものにはならない。だから、

生きる意味を考えることはおそらく無駄だ。

“生きる意味は何か“などという、高尚な問いかけに答えられる一個人などおそらくいない。

だから、考える必要がない。

人間以外の生物はそんなことを考えて生きていない。1日1日を懸命に生き、命のバトンを繋ぐ。高い知能を持ち、高尚なことを考えられる人間であっても、この点においては他の生物と大きく変わらない。

社会的に大成功して、世界的な大企業の創業者になったとしても、所詮は人間社会にとっての話だ。地球にとっては何でもないことであり、他の生物にとってはどうでもいいことだ。

生きる意味を問うことはやめよう。得られるものがないからだ。

もっとテキトーに生きた方がいい。もし敢えて考えるならば、

子どもなど次の世代へバトンを渡す為に、日々最大限の努力をする

これが関の山だ。答えの出ないものに対して、一般人はあれこれと思いを巡らせるべきではない。徳の高い僧に任せればいい案件だ。

クラゲをイメージしよう。何も考えず、フワフワとして流れに身を任せる。だらしなく感じられるかもしれないが、これぐらいで十分だ。流れに身を任せ、1日1日を生きよう。それで十分だ。

light sea people art
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