我が家の、鬼滅の刃(伍)
涙
私はアニメ26話とコミックス3巻を知っているに留まっているので、無限列車編以降のストーリーを知らない。私の知っている範囲においては、鬼滅の刃は明らかに大人向けの作品だと感じる。アニメは、丁寧な心理描写は大人向けの作風に拍車がかかっている。和テイストの画と音楽、もちろん敢えて避けなかった残酷描写も、大人向きゆえのものだ。テレビ局が制作に入りキー局の放映だったら、この作風には出来なかったのではないかと思う。私は『この大人向きの作品を、子どもはなぜ楽しめるのだろうか』と思った。子どもには理解が難しい心理・心情の描写がふんだんに組み込まれており、勧善懲悪の英雄譚ではない。大人向きの要素を超えて、子どもが魅力を感じる程作品が面白いのだろう。
鬼滅の刃を見ていると感じることがある。単純な泣かせるテクニックとは違う、強い感動。涙だ。
感動 ~哀しみや苦しみに対する共感の涙
私は人生を通じて片手で数えて指がかなり余るぐらいしか感動して泣いたことがない。映画やドラマはおろか、冠婚葬祭、長男が自閉症だと分かった時ですら涙は流れなかった。体操着に着替えられない状態で参加した小学校1年生の運動会で、長男が徒競走に参加して完走してくれた時に泣いておらず、号泣する妻から『人の心がないの?』と不思議がられたほどだ。その私ですら、鬼滅の刃を見ると胸が熱くなる。
心情描写がとても丁寧だ。丁寧なのは画だけでなく、音楽やカット割り、声優さんの演技にもいえる。小手先の泣かせるテクニックではなく、正面突破で感動させにかかってくる。次男は、ドラえもんやしんちゃんで感動して泣くが、鬼滅の刃のそれはまだ感じ取ることができないようだ。
登場人物の中でも、炭治郎は特に泣かせることを言ってのける。元々の優しさ、妹や仲間への想い、敵にかける情けや共感。炭治郎の”涙腺攻撃”は危険だ。私がちゃんとした人間だったら、号泣させられているところだ。私が鬼舞辻の血が濃い”鬼”でなければ、泣いているところだった。
鼓舞 ~心が奮い立つ涙
アニメ鬼滅の刃を見ていると、炭治郎達の戦いを応援している自分に気付く。齢40超のおじさんが、アニメのキャラクターの戦いに固唾を飲み、応援している。とても気持ち悪い様だが、同じようなおじさんは沢山いるのではないかと思う。この点において、子ども達と同じ気持ちになってアニメを見ている。
鬼滅の刃は不思議な作品で、作品の世界の中で『頑張る』『○○になる』という決意をしてその通りにキャラクター達が歩むのだが、自分のことについて言われているような錯覚に陥る。炭治郎が『努力する。頑張る。』と言っていると、『自分もがんばろう』という気持ちになる。炭治郎や鱗滝が絆の大切さを語れば、『家族を大切にしよう』という気持ちになる。のめり込む度合いが極めて高い。この点が、大人向けにも拘らず子どもたちに大人気である由縁なのかもしれない。
心が奮い立つことで感動し、涙がこみ上げるという経験をほとんどしたことがない。とても異質な経験だ。那田蜘蛛山編の終盤(神回の誉れ高い19話のエンディング)はそれに近い。握りこぶしでアニメの主人公を応援し(当時コミックスを読んでいないので筋を知らない)、家族への想いを台詞とEDで見て胸が熱くなる。”鬼”の端くれである私であっても、目頭が熱くなった。
家族や仲間を大切にして、一生懸命頑張る。炭治郎たち”カマボコ隊”の姿に、子ども達が影響されて優しさや気持ちの強さを磨いてくれたら、これほど素晴らしいことはない。無限列車編は、日本記録を破ろうかという位置にある。日本全体がアニメに影響されて鼓舞されて、コロナや将来不安に向かって立ち向かえることができる気持ちになれたら素晴らしいなと思っている。
令和コソコソ噂話。その昔、朝廷に仇名す存在を鬼と見做していた時代があった。平安の酒呑童子伝や、大和朝廷の長征の対象だった九州の熊襲・隼人、東北の蝦夷は、当時の平安京から見れば鬼も同然だったのかもしれない(東北には鬼の伝説が多い)。また、田畑を捨て律令制と租税から逃れたサンカは物語の鬼のモデルになっているという説を聞いたことがある。鬼の正体は、自分と同じ人間。鬼滅の刃と同じだ。鬼は人間の中に棲む。コロナ禍によって、”鬼を見かける機会が多くなった”と感じる。現実世界においても、鬼を抑える何かが必要だ。