死より辛いのは生き続けること

自分が生きているのは、家族の為

自分の為だけに生きる目的や意義はもはやない。自分だけで考えると、この世にやり残したことはない

気が付いたら、生きる理由が自分の中からなくなり、家族の方に変わっていた。“身体の外に出てしまっていた“。自分以外の誰かのために生きることは、とても崇高であり、生き甲斐を感じる。一方で、寂しさも感じる。自分の命の価値がゼロ二つ無くなった感覚だ。『何のために生きているのだろう』

『生きてるだけで丸儲け』は明石家さんまさんの有名な言葉だ。確かにその通りで、死んだら負けだ。生きてさえいれば、逆転は可能で、再戦することができる。反対に、自死は負けそのもの。負けた状態から挽回することも前進することもできない。私は子どもの頃から、

自死だけは絶対にしない

と誓っている。どんなに苦しくても、自分で自分の命だけは断たない。極論を言えば、他者要因により自死するぐらいなら、憎い相手を手にかける方を選ぶ。

ただ、生と死を比べると明らかなことがある。

生きることの方が辛い

何十年もこの考えは変わらない。同じ考えの方は相当数いると思う。

死ねばその瞬間、無になる。悩みは消える。考えることがなくなるから。生前、呪いのようにまとわりつき苦しめられた“悩むこと“から、死ねば解放される。

痛さ怖さ悲しさを越えて、死んで無になれば、悩む苦しみからは逃れられる。

ただ、この方法で逃れるのはズルだ。

人間は、悩みもがいて生きてなければならない。

人間は、“悩み苦しむ“という一種のカルマを背負い、生きてことで贖罪しているのではないか。無神論者だが、こんな風に思っている。

私の歳になると、仕事に関しては概ね底や天井が見えてしまう。未知の可能性という余白部分がなくなる。『自分の未来は大したことがない』と“分かって“しまう。もし家族が居なくて、独身で、守り支えるものがなかったら、生きている意味を見出せない。金を稼いでも虚しい。もし今独身だったなら、今日死んでも構わない、と思うだろう。この世界に未練がない。

だから、家族がいてよかったと思っている。また、生きる熱量を蓄える為に、趣味や好きなものなどの俗物的なものを用意することは大事だと思う。

私の場合、ランニングやラジオ、アニメ、ドライブなど、楽しいことを少しでも多く積み上げて、

死にたくない理由を増やそう

と心掛けている。この世の未練を可能な限り増やす。

死は一瞬、生は一生。長い分、生きることの方が辛い。でも、生きることは辛いからこそ、

困難な道を選ぼう

個人差はあるが、

何年何十年待っていれば、誰だってそのうち死ぬ。

頭を空にして、漫然と“生きる“方の選択肢を選ぼう

underwater photography of turtle
Photo by Jeremy Bishop on Pexels.com

Previous article

凧揚げ