自慢できることなんて、一つもない

“仕事ができる“とされる人の話は総じてつまらない。ほとんどの話が自慢話だからだ。話の中身に自身のキャリアや苦労話、目線の高さが織り交ぜられている。このような人は、ほとんど無意識にこの味付けをしているのではないだろうか。話を聞いていて面白いと思う人はいるのだろうか?少し考えれば分かることが分からないということは、やはり無意識なのではないかと思う。

私の父がこのタイプの人だった。親戚の集まりで自分が手がけている仕事が如何に大きくて難しいか、自慢げに話していた父が嫌いだった。今でも父のことは苦手だ。「私はこうなりたくない」と思っていた。

この願いは叶い、私は自慢話をしない人間になった。私には自慢できるようなことがないからだ。

「自分はなんてダメな人間なんだろう」。この考えが前提にあるので、成功体験が記憶に残らない。だから、いつまで経っても自己肯定感は高まらない。上手くいった時はいつも偶然の産物として結論付けてしまう。だから、次は失敗すると思ってしまう。

自分に誇れるものはない。でも、家族のことは誇れる。とても素晴らしい家族だといつも思っている。それは、自閉症の長男に対しても同じだ。彼は積極的であり、他人に優しい。家族を支える妻は言わずもがなだ。家族自慢をする機会はなく、これからも自慢することはおそらくないが、私の唯一の自慢はこの家族だ。

生きる意義と使命を与えてくれるのも家族だ。もし独り身だったら、私は生きている必要がない。家族の存在は、私を生かしてくれる。自慢できることが私の中なくても大丈夫だ。誇れるものは家にある。そして、わざわざ人に言うことではない。

これから先も自慢できることが何もない人生でもいい。人は人、自分は自分だ。